昭和四十七年八月十九日 朝の御理解
御理解 第二十一節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というの           じゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし           カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず           火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」 信心せよと。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと。しかもその信心は、世界がいうなら、明るくなる程しのものを信心というのだと言うてもよいと思う。信心なければ世界が闇とおっしゃる。
 ですから信心ということは、まず自分の心が明るくなる。その周辺がいうならば、家庭なら家庭、職場なら職場が明るくなる程しのものを信心というのじゃと言うてもよいわけです。
 只、拝みよります、お参りしよりますと言うても、やはり神様へ向かうてきておる事は間違いないけれども、それは神様に向かうてきておるのであって、ここで教祖がおっしゃる信心にはならないと思う。
 信心とはどこまでも、自分の心の中に光を頂くこと、だからその光によって自分の周囲が潤うてくる、明るうなってくる。まず家庭が職場が、そういう人達が段々多くなっていくならば、成程世界が明るい世界になる事だと思います。
 いわゆる和賀心時代を創るという事はどういう事かと言うと心に光を持った人達の世の中を創るという事にほかならないと思うですね。
 心に光を持った人達が世界に広がっていくという事、それが和賀心時代を創るという事。
 ですから、まず何と言うても、自分の心に信心の光を頂かしてもらわなければならん。その為には、円満な心を頂かせて頂く事に精進努力するわけです。いわゆる和賀心にならして頂く事を精進努力するのです。
 自分の心から光を例えば発するとい事は、これは出来ません。これは自分の心の中から光を放つという事は出来ませんけれども、私共の心というものが、真心にならせてもらう、心がいうなら、和賀心に少しずつでも近づかせてもらう。それは丁度、自分の心が、満月のいわゆるお月様のような状態にならせて頂く事を願う。それが和賀心。お月様自体には光はありませんけれども、太陽の光がそれに照りかえるのです。 ですから昼もあざむく程しのいわば明るさというものが生まれてくる。人間自体には力はありません。教祖はそこんところを障子一重がままならぬ人の身ぞと教えておられる。もう自分ではどうしょう、こうしょうと言うてもね、ぎりぎりのところはどうにも出来ないのです。
 自分で出来る事じゃないです。だから一時でも早うここのところを悟るのが信心なのです。要点だと言うてもいいです。
 自分で出来る事はない。自分で出来るならもってみるがいい。それは様々にわがままもできれば、気ままも出来る。そんならわがままが出来る、気ままができるという事が人間の幸せじゃないです。
 人間の幸せというのは、いわゆる神様のおかげを頂かねば立ちゆかん。これがもう人間の実相なんだ。実際の姿なんだ。信心とはだからそこに気がつく事です。
 障子一重がままならんのが人間の姿である。そこで、信心しなければおられない。 信心によってそんなら、どういうおかげを頂くかというと、自分の心の中に光を頂く。だから自分の心を受けものというものを、円満に丸く々していく事に、和賀心にならせて頂く事につとめる。
 神徳の中におっても、氏子に芯なければおかげはなし、御神徳満ち溢れるところの中にあっても、氏子にその受けものがなかったら信がなかったらおかげは受けられん 今朝私は御神前で頂きますのが、あのムッケ木の花ね、今咲いてますねえ、白のムッケ木が、その赤いムッケ木の花を頂いてね。あのムッケ木の花は中に大きな芯が花弁の外に出るくらい大きく出てるでしょう。そこんところをクロ-ズアップするようにして頂いた。
 どういう事だろうかと思うた。ムッケ木と、木は心と、例えば信心は我情我欲を放れてとおっしゃるけれども、我情我欲を放させて頂くという事にも、やはり芯がなからなければならない。
 そして今日この二十一節を頂きましたから、いよいよこの二十一節の信心とは、わが心が神に向かうという事。そんならその信心とは、拝みよります、参りよりますというのも信心でしょうけれども、今日はそれを信心とは言わない。
 信心とはどこまでも自分の心に光を頂くという事。信心なければ世界が闇なり。いかに信心しておる人がおっても、心が闇だという人がいくら集まっても、世界は明るくなりませんよね。やっぱり世界は闇なんです。
 だから信心とは、わが心に光を頂くという事だと。今日はそういうふうに頂いて頂きたい。その受けものとして、だから和賀心にならせて頂く。
 これが円満円満に丸うなっていけばいくほど、それこそ昼おも欺くというかねぇ、ほんにあの人は神様じゃろうか、仏様であろうかと、神様、仏様をを欺く程しの光を放つ事が出来る。人間でもそういう意味なんです。
 そういう人が段々増えて行く事によって、社会は明るくなっていく。ですから信心とは光を受ける。それには私共がやはりムッケ木という事にならなければいけん。
 という事はどうい事かというと、これは昨夜のお月次祭の後の教話に頂きましたように、昨日、私は、皆さんにお話を頂いて頂こうと思うて、御神前に出らして頂いた そしたら、今ここで修行しておる田中先生が、右のお結界に奉仕をしておる姿であった。丁度昨日は、前講を先生がつとめておりました。例えば、お結界に座っておるそれが、毅然としてじゃないけれども、只何とはなしに座っておるという感じでした だからたとえそんなら、それが修行生であろうが、田中先生であろが私であろうがお結界に奉仕をしておるという事は、もうそのまま生神金光大神のお手代わりをしておるんだと。
 そんなら、田中先生が、今日は前講にお取次を皆さんにして下さった御教えのお取次者をしてくてださったが果して、どんなふうにそのお話を頂いたかというふうに、感じまして、私は今日田中先生がお話をしたが先生のどこを頂いたかと自分で思うてみた。ところが私、マイクの都合でここに聞こえてこない。耳も遠いものですから、それで耳に手を当てて聞きましたけれども、よく聞き取れませんでしたけれども、一番はじめのところだけ聞き取れた。
 大学を卒業した。学院もでた。そして本部で教学の勉強もさせて頂いた。いよいよ取次者としての、いろいろな事を覚えた。いよいよ人が助かる事にならなければならない。為には信心の実地でいくより他ならない。やはり人が助けられておるという、助かっておるという、合楽で修行させて頂きたいと思うに決めた。そして合楽に遙々五十日間の日をきって修行にきた。
 そして目の当たりに合楽の御ひれいに浴した。そこでです、折角信心させて頂くならばです、本当に人が助かる自分が助かる程しのいわゆる真の信心を頂きたいという念願で合楽にきたという事が一番はじめにその事を申しておりました。
 いわゆる折角信心するなら、おかげを頂きたいと思うてじゃなかったわけです。折角信心させて頂くならば、真の信心がわかりたい。真のおかげを顕しておられるという真の信心を体得したいと、これが先生の願いであった。
 だから、私はそこんところだけが聞こえたからそこんところだけを確かに頂きとめておった。そして私の心の中に自問自答してみてです、その真の信心を頂こうという姿勢を、どのように示しておるか。
 御教えにも親のいう事を聞かぬ子が一番つまらぬと教祖はおっしゃっておられる。 親の言う事を聞かぬ者は一番つまらぬというて昨日私は、実例をもってです、何十年お参りをして来ておるけれども、親のいう事は、御教えを頂かないという事なんです。しかもそれを頂かないから、勿論、行の上にも顕さないという事。
 大変商売の方では繁昌もしておる。地位的にもおかげを頂いておるけれども、肝心要の家庭の中がもう、乱れに乱れておるという事。
 その私は話と、それから昨日、若い方達が続けて五人くらい、恋愛問題とか、結婚問題とか、難しい微妙な状態の方達のお取次をさせて頂いて、一人々にこういう心がけで、こう受けていけというようなお取次をさせて頂いた。その事を話させてもらった。信心させて頂く事によってです、そこんときころにはっきり指針が出来るという事は人間の、幸、不幸のいうならば、別れ道に立っておる時なんだ。
 そしてそこで気持ちがすっきりしたとか、気持ちが落ちついたという事でおかげを頂いて帰った人の話を昨日はさせて頂いたんですけれども。
 だから、そういう例えば、そんなら自分の幸、不幸の岐路に立っておる時に、これがね、自分で幸、不幸になってみせますとかね、なるとか言うて絶対人間の力で出来る事はないです。さっきから申しますように、神様のおかげを頂かなければ出来んのです。だから神様の、いわゆる親の言う事を聞かなければね、神様の言う事を聞かなければいけんのです。
 神の言う事を聞かぬ子が一番つまらんと。。そんならこうして、御教えを聞いておるという事だけでなくて、たとえて、ここに品物があるてら、ちょっとすまんけれども、この品物、あっち持って行ってくれ。ハイというて聞いただけじゃいかん。
 やはりそれをもって行かなければ聞いた事にならないのだというような事を芯にして昨日は話聞いて頂いた。
 ですから、信心のいわば、という事がです、成程神様任せになっていけば、こういうおかげになっていくという事を、体験させて頂いて、いよいよ自分という者が空しゅうなってくる。右にしょう、左にしょうという気持ちがなくなってくる。
 それを繰り返させて頂いておるうちに、いわゆる親先生任せになっておりさえすればという信心が進んでくる。育てられるわけです。
 自分に都合のよい時だけ、右とか左とかいうのではなくて、そういう例えば信心、それを昨日は神様を御中心に申し上げるところの信心、いわゆる神様本位の信心とこう申しました。
 ひとつ、例をとってここに何十年お参りはしておるけれども、親の言う事を聞かない。御理解すら頂かない。只、願い事だけはいっぱしに願うけれども、そして成程おかげは受けておるけれども、肝心要の今日私が言う心に光がないから、家内に与える事も出来なければ、親に子に与える事も出来ない。
 願っておる商売そのものの事はおかげを受けておるけれども、家庭には、もうそれこそ信心しておってびっくりするような、いわゆる親子の断絶という事なんです。
 だから、信心しておっても、だから今日の場合はそういうような信心じゃないと今日は言っておるわけです。
 信心とは心に光を受けるという事。信心なければ世界は闇なりと、最後におっしゃっおらさる。そういう心に信心の光を頂く人達が世の中に段々増えていく事によって世界が光に潤うてくる。明るうなってくるというのです。
 だか先ず第一に自分の心、まず第一に自分の家庭にその光が潤うていく程しの信心を、ここではせよというのは、そういう意味の信心をせよというのである。
 そんなら、そういう信心をさせて頂くのには、只今申しましたように、神様本位、神様がそう言うて下さるからという信心、自分という者を空しゅうした、いわゆる、ムッケ木になったわけなんです。いわゆる神様中心。
 そういう信心からです、いよいよ光を受けて行く事が出来るんだと思うです。ですから、そのへんのところの信心がね、只、信心しておって拝みさえすりゃいい、というような事から、皆んなは始まるんでしょうけれども、やはりそういう、ひとつの信心のいわゆるムッケ木の芯を特別に黄色い芯をスッと花弁の外に出るような、ああいうように芯がひとつ貫かれておるという事です。
 そこんところを、カンテラに油がいっぱいあっても、いわゆる芯がなければ火はともらんと芯の事をおっしゃっておられます。その芯に火がともる。
 昨日、末永先生が学院の同期でもありますし、近所でもありますから、本郷の若先生が今度、鹿児島県大口市の方へ布教に出る事になった。
 それでそれ前に何回でもここにもみえられましたが、同期でありますから、それが丁度十八日、それは合楽のお月次祭の日ですね。十八という日はよい日を選ばれましたな。いよいよ広がりに広がっていくおかげを頂く事の為に、まあ本当に人が助かるる事の為に、いよいよ僕自身が助からなければいけないねと言うて、先日みえた時もいろいろお話をしたことでした。
 ですからその事のお取次を昨日末永先生が願ったわけです。そして実は、そのお夢を頂いたと。丁度その場面が末永先生が頂いておるのが、安武君が布教に出るというお知らせであった。
 それが段々徹君と秋永先生に変わっていった。勿論末永先生というならお父さんとだからというてもいいわけです。そしたらここで名実ともに実力をもっておるというある御信者さんが、それこそ素晴らしい餞別をしようと言うお知らせであったというのです。そしてその次に頂いたのが「三条信治」と頂いた。だからね、ああた方もこうして一生懸命信心修行させてもろうて、ゆくゆくは布教にも出らなければならない それにはね、やはり時期というものがある。けれども時期は来ても、こちらが迂闊にしておるとそれを逃してしまうという事になる。
 だからね、本当にいよいよおかげを受けなければならない場合なんかは、例えば修行をね、ほんなちょこっとばっかしかじったような修行ではなくて、例えば西瓜の行でもです、もう本当に皮つきまで食べてしまうようなくらいな修行せにゃ駄目だ。
 もう、この西瓜に種子がなかなら、さぞよかろうというごたる修行じゃつまらん。 修行には苦労はつきものである。わずらわしい事に間違いないけれども、そのわずらわしいとか、苦労をいとうような事では修行にならん。
 西瓜の修行というたら、最高の修行という事でしょうね。水火もいとわんといったような、火や水のという意味なんでしょう。
 それにもうほんに、種子がなかなら、さぞよかろうちゅうごたる修行では駄目だと 修行もよかばってん眠か。修行もよかばってん暑いと。だからそれを感ずるような事では本当の修行じゃない。そういう修行ね、ヤ-ッというように仕上げていくような、勢いが信心させて頂く者にはなからなければならない。
 そこにね、そういうおかげを頂く為の三ケ条というのがある。三条というのは三ケ条という事。
 それには神様の願いと、親の願いと、あんたの願いというものが、この三つがピタッと合うた時に、さあ明日から布教ぞというような事になるのだ。
 そんなら秋永先生親子の事を頂いたというけれども、徹君がああして、教師の資格をもらってかえって参りました。御神意の深い事であろう。
 お父さんが永年あのような皆さんも御承知の通りの信心を一生懸命させて頂いておる。本当いうたらあれが二十年前に合楽教会が教会であったら、ひょっとしたら京染屋さんを止めて、教師になっとったかもしれない。
 だから親のそういう親にかけられる願いが子供にかけられた。折角教師の資格をとってきたのであるから、徹の願いと、父親の願いと、神様の願いというものが、何かそこにピタッと合うた時に素晴らしいいわゆる信治と事は信で治めると書いてある。 信の治めるという程しのおかげが受けられる為にはまず各々がです、信で治められる内容を頂いておかなければいけないという事。
 自分の心が信心によって治まっていく。どのうような事があっても、いうなら、黙って生神金光大神様に心をうち向けて、天地の親神様に心を打ちむけて、自分の心を治めて頂けるだけの信心というものが頂ける、いわゆるそういう信心が願われる。
 今日の御理解で申しますと、神様に心を向けておるというのは、そういうわが心が神に向かうという信心とは、自分の心に光を頂く事だと
 自分の心が信心によって治まる。まあ言いたいことは明日言えというような事を申します。だからまあ言いたい事は言いたいけれども、ぐっと辛抱する。金光様、金光様で辛抱する。明くる日になってみると、ああ本当に言わんでよかったという時、はじめて光がついたようなものなんです。
 それを例えば信心させて頂く者はもうその場でです、心が治められるおかげを頂かしてもらう。その場で自分の心が治まっておれれる程しのおかげを頂くという事。
 神徳の中におっても、氏子に真なければおおっしゃる。只、漠然とさっき申しました、もう二十年椛目の時代からおかげを受けております、お参りは熱心に出来ます。けれども、その親の言う事は聞こうとしない。私のいう事は聞こうとしない。
 教えを拝聴しょうという事もしない。そして只願う事だけ。だから、そういうのは信心ではないのだと。だから心に光がないから、肝心要の自分の家内にです、自分の親にですら潤いというものを与える事が出来ない。
 願うからおかげは受けておる。だからおかげを受ける事を、今日は信心というのではない。自分の心に光を受けるという事が信心だというふうに聞いて頂いた。
 そこでそんなら皆さん、毎朝参って、私のお話を皆さんが聞いて下さる。そんならそれで親の言う事を聞いておる事ではない。
 それは只聞いておるいうだけの事、その聞いておる事がです、行じられるというところから、親のいう事を聞く事になる。
 親のいう事を聞かぬ子が一番つまらん。それには田中先生じゃないてけれども、折角合楽に修行に来らして頂いたのであるから、いゆる本当の信心、真の信心を身につけたい。おかげを頂きたいではなく、信心を身につけたいというまずここのところに発心しなければいけない。
 本気で信心を頂こうと、信心を頂こうという気になるとです、もう、水火をいとわんようになります。信心を頂きたいという事になったらもう修行せずにはおられんのであり、楽しいのであり、有難いのである。
 おかげを頂くというのであるから、修行がああいつまで修行したならよかじゃろうかいつまで参ったらよかろうかというような事になってくる。だから、それは信心じゃないと。今日の場合きめつけて聞いて頂いたわけですね。
 そういうところが、ひとつの段階となるのでけれども、お互いが信心の眼が開けるという事は、どうかして真の信心を頂きたいという事。
 それはいわゆる神様の願い、私共の願い、親の願い、これは金光大神の願いと言うてもいいでしょう。天地金乃神の願い、まあここでは取次者私の願いと言うても言いだろう。
 私の願いと末永さんの願いと、神様の願いとこう言いてもいいでしょう。その願いが、ああもうあそこが出来たら大丈夫、もう、どこもここも出来るという事はありません。けれどももうそこが出来たならもう大丈夫だと私が思うた時には金光大神もそう思いなさる時であり、神様もそう思いなさる時にちがいないです。
 ですからそんう時に、パッとこう火花が散るようなおかげが顕れてくるのです。そこからです、信心によって治めること、自分で自分の心を治める事だけではなくてです、難儀な氏子が取次助かりを願ってくる人達にもそれを与えていく程しのものが受けられる。それを今日私は光だと聞いて頂いた。
 信心は光なりとこういわれますが確かに信は光なりであります。その光を例えば、家庭の中に又は社会の中に潤う程しの事になってくるから、信心なければ世界は闇なりとおっしゃられたんです。
 そこでです、自分のそういう光がです、受けて参ります事の喜びがね、いわゆるお礼の信心というのです。只おかげを受けたから有難うございますというのはね、本当のお礼じゃないです。
 それは誰でん当たりまえの事でしょうもん。何かもろうたらお返しせんならんというお礼じゃいけんのです。
 本当のお礼というのは、真の信心が自分の心の中にともる。光がともる。信心ちゃ何て有難い事であろうか。おかげちゃ有難いというのじゃないですよ。信心とはなんて有難いであろうか。このような場合であっても、このように自分で自分の心を治める事が出来るという事が有難い。
 その有難いと思う心が、お礼に表現される信心になった時に、はじめて貴方の信心はお礼の信心と言える。いわゆる神恩報謝の生活という事は、そういう事だとおもう だからもを結論は神恩報謝の生活が出来るという事です、人間の幸は。
 そこのところを今日はそれを信心だと聞いて頂きました。信心せよ、信心とはわが心が神に向かう。折角信心をさせて頂くならば本当の信心を頂きたい。それが神に向かう姿なんですよね。どうぞ。